権現造りの妻沼聖天山本殿(聖天堂) |
平安末期に創建された聖天宮は、その後、幾多の修復・再建を重ね、830年以上に及ぶ歴史を刻んで来ました。
寛文10年(1670)の妻沼大火による類焼以来、65年の長きにわたり仮本堂の時代を余儀なくされた結果、地元民の再建に懸ける篤い思いは、江戸中期になって遂に見事な権現造りの聖天宮(堂)として結実したのです。
全て庶民の手により成された妻沼聖天堂は、250年を経た現在、「装飾建築の到達点」とか、「江戸中期を代表する装飾建築」とまで評されるほどの建物だったのです。
その結果、平成24年には埼玉県の建築物として、初めて国宝に指定されたのでした。
典型的な装飾建築の聖天山奥殿 |
妻沼聖天宮が再建されたのは、8代将軍・吉宗公の「享保の改革」があった時代でした。
改革の一環として、幕府財政再建のため、将軍御霊屋の新造営禁止、幕府による寺社修復の制限等が打ち出された頃でした。
一方で、幕府の許可のもと、民間が自らの勧化活動により、寺社の修復・新造営を行ってもよい、という「御免勧化」が許された時代でした。
こうしたなか、聖天宮の再建に向けて動き出したのが歓喜院と妻沼12郷の郷民でした。
地元の宮大工・林正清の「聖天の神告を受ける神夢」により再建を発意した(『聖天宮旧記』)、との逸話からも、その執念の強さが窺えます。
林正清とは、3代将軍家光公の廟所・日光輪王寺・大猷院造営などを担った、江戸幕府作事方大棟梁・平内大隅守応勝の次男と伝わる名工です。
正清は、豊富な人脈と確かな技術力をもとに、国家的大事業の減少で、己の技を活かしきれずにいた、当代一流の名人・名工の技を、妻沼聖天宮の再建事業で一つに集結させたのです。
次回は拝殿向拝の目貫周りについてご説明しましょう。
妻沼聖天宮が、その後の寺社建築や職人達に与えた影響については、追ってご説明します。(文・写真:阿部修治)
著者紹介:熊谷市在住。上武郷土史研究会主宰、阿うんの会・講師。
全国歴史研究会、埼玉県郷土文化会、木曽義仲史学会、他各種会員。
主な著書:『妻沼聖天山』、『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』(以上さきたま出版会)、『寺社の装飾彫刻・関東編上』(日貿出版社)、
『斎藤氏と聖天堂』(熊谷市立熊谷図書館)、『歴史と文化の町・“めぬま”』(阿うんの会)
埼北ちっちゃな旅「深谷・妻沼版」
おでかけMAPはこちらから▶