「国宝・妻沼聖天堂の魅力」シリーズ16

 

大工棟梁・林兵庫正清と門弟たち

 妻沼聖天堂の再建のキーマン、総棟梁・林兵庫正清とは、幕府作事方大棟梁・平内大隅守応勝の次男と伝わる人物でした。
 聖天堂建立後は、各地の宮師を志す棟梁・彫師らの間で、「妻沼聖天宮の宮寺造りは、一度は見ておけ」が、合言葉となると共に、「林正清」の名は各地に知れ渡ったと伝わっています。
 正清の門弟は、棟木銘や墨書などにより、地元の宮大工らの他、信州の池上善八なども正清の下で腕を磨いたことが解っています。
 武州や上州の門弟たちの手がけた寺社は、妻沼聖天堂によく似た形容を残している他、太田市世良田(旧新田郡尾島町)の八坂神社のように、正清没後の建立ながら、棟札には「武劦(州)妻沼邑棟梁、林兵庫藤原正清」の銘が残され、正清没後とはいえ、棟札に「正清」銘を冠名として書き記してある寺社も見られます。

太田市世良田の八坂神社
太田市世良田の八坂神社

 また、正清没後に信州・伊那に戻った池上善八は、妻沼聖天堂の拝殿彫刻棟梁の関口文治郎と共に、「伊那日光」と称される「熱田神社」(国・重文)を建立し、棟木に「武蔵国妻沼村林兵庫門人池上善八郎」の銘を残し、妻沼から遠く離れた伊那でも、正清の名が冠名として使われています。

 

聖天堂自体を彫刻化した彫刻師たち

 彫物師は、“上州の名人”と謳われた花輪村の石原吟八郎を筆頭に、上州の彫物師たちが参加したと推定されています。吟八郎が病で退いた後、拝殿の彫刻棟梁を務めたのが弟子の関口文治郎で、後に“上州の甚五郎”と称された名工です。
 黒保根村の古刹・医光寺本堂の棟札に、僅か16歳にして名を残した文治郎は、文化3年(1806)の榛名神社建立を最期の作品として、翌年、76歳で生涯を閉じています。
 彫刻で埋め尽くされた聖天堂ですが、作品と彫師名が解っているのは、江戸彫の後藤家始祖・後藤茂右衛門正綱と、同じく江戸彫の小沢家始祖・小沢五右衛門常信の二人だけです。
 聖天堂彫刻の特徴として特筆されるのは、この後藤茂右衛門正綱と小沢五右衛門常信の作品に代表される、彫刻技法の違いがあります。
 後藤正綱の作品は、全体的におとなしい作風ながら、巧みな技術で立体的に彫り上げた、日光東照宮に代表されるような伝統的な作風だと評され、一方の小沢常信の作品は、彫りが細かく、鋭角的で精悍な感じを与える作風であり、後の彫刻技法の新しい流れになっていった作風だと評されています。
 「平成の大修復工事」により、聖天堂の彫刻師たちには、この伝統的な作風の彫師と、新しい作風の彫師といった、二つの流派の彫師たちが参加していたことが窺えました。
 即ち、聖天堂は、後に関東各地で活躍した名人・名工の技の結晶だったことが解る建物でした。

(文・写真:阿部修治)

 

著者紹介:熊谷市在住。上武郷土史研究会主宰、阿うんの会・講師。
     全国歴史研究会、埼玉県郷土文化会、木曽義仲史学会、他各種会員。
主な著書:『妻沼聖天山』、『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』(以上さきたま出版会)、『寺社の装飾彫刻・関東編上』(日貿出版社)、
     『斎藤氏と聖天堂』(熊谷市立熊谷図書館)、『歴史と文化の町・“めぬま”』(阿うんの会)

 

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