「国宝・妻沼聖天堂の魅力」シリーズ15

 

大我井神社と貴惣門

 大我井神社造営の棟梁は、国宝・聖天堂の棟梁・林正清の子孫、林家5代目・林正道で、聖天様の「貴惣門」を造営した棟梁でもありました。
 平安時代に神仏混淆として合祀された聖天宮は、江戸中期に発生した「寛保の大洪水」後に、御手伝普請として幕府から派遣され、妻沼にやって来た岩国の吉川家作事方棟梁・長谷川重右衛門が、聖天宮再建の大工棟梁・初代林正清と会ったことにさかのぼります。
 この出会いを機として、林正清と長谷川重右衛門との関係が築かれ、後に重右衛門による「貴惣門」の設計へとつながったのでした。


大我井神社造営の林兵庫正道の手による「貴惣門」

 つまり、長谷川重右衛門により設計された「貴惣門」が、それから約100年後、林家5代目・正道による明治期の「貴惣門」創建へとつながり、岩国の長谷川重右衛門と、聖天堂棟梁・林正清の縁を基にして、以来、林家5代目・正道以降、今日に至るまで、聖天堂を通じた縁で結ばれることになり、まさに縁結びの聖天様だったのです。

 

神仏分離令と大我井神社

 次に、明治以降、聖天堂から分離された神社の創建についてお話ししましょう。今から150年ほど前、徳川幕府の崩壊により明治維新を迎えると、新政府の「祭政一致」施策のもとに、神仏分離令が公布されました。
 この神仏分離の新政策は、民衆の誤解により、明治政府の意図を超えて、廃仏毀釈の波となって押寄せることとなり、この結果、多くの寺院や仏像などが廃されるに至ったのでした。こうした激動の中、妻沼の聖天様は寺院として存続し、神社が分離されることになりました。
 明治2年6月、存続することになった歓喜院や、郷民の協力のもと、それまで合祀されていた神様(イザナギの命・イザナミの命)は、新たに分離・創建された神社に遷宮されました。


聖天堂から分離・独立した大我井神社

 それが、聖天さまの東、県道熊谷・太田線の東側に創建された、林家5代目・正道と6代目・正啓父子による、神明造の本殿を持つ「大我井神社」です。
 以来、妻沼の惣鎮守として郷民の崇敬を集めると共に、毎年8月27日に行われる大我井神社の摂社・冨士浅間神社の「火祭り」の神事は、熊谷市の代表的な祭りの一つとして、多くの人で賑わっています。(文・写真:阿部修治)

 

著者紹介:熊谷市在住。上武郷土史研究会主宰、阿うんの会・講師。
     全国歴史研究会、埼玉県郷土文化会、木曽義仲史学会、他各種会員。
主な著書:『妻沼聖天山』、『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』(以上さきたま出版会)、『寺社の装飾彫刻・関東編上』(日貿出版社)、
     『斎藤氏と聖天堂』(熊谷市立熊谷図書館)、『歴史と文化の町・“めぬま”』(阿うんの会)

 

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