「国宝・妻沼聖天堂の魅力」シリーズ17

本シリーズの終りに当り、目立たない部分ながらも棟梁・林正清のこだわりが窺える、職人の仕事もご紹介します。

幕末奥絵師・狩野英信らの絵画

 拝殿格天井中央に描かれた、縦180cm、横250cmの龍の墨絵・「雲龍」には、「狩野大蔵卿法印祐清藤原英信画」の墨書が残っています。
 狩野英信とは、幕府奥絵師として江戸城に出仕して、幕府の御用に従って絵画を作成する絵師の最高位にあった人物です。
 他にも聖天堂内部の天井画や、羽目彫刻などには絵師の墨書銘が残っており、この墨書から奥殿彩色の中心は、狩野家表絵師の狩野舟川門弟の下山平吉が棟梁格だったことが窺えました。
 このように聖天堂の彩色と絵画は、狩野派の絵師たちの分担によるものだったのです。
 特筆されるのは、奥絵師狩野派宗家・英信の銘を眼にした、当時の庶民の驚きと感慨の程が窺えるのではないでしょうか。

幕府奥絵師・狩野英信作の「雲龍図」
幕府奥絵師・狩野英信作の「雲龍図」

 

地形基礎は高遠石工

 江戸時代、信州高遠藩では財政補助策として、石切・石像彫刻の技術を取得させ、「旅稼ぎの石工」として各地に派遣していました。
 高遠藩は、正徳年間の「江島・生島事件」で流罪となった、大奥御年寄の江島の身柄を預かった藩として知られますが、なんといっても2代将軍・秀忠公の隠し子・幸松(後の保科正之)を養育し、後に陸奥会津藩初代藩主となった名君・保科正之公で知られる藩です。
 高遠藩主が内藤氏だった時代には、旅稼ぎの石工は「高遠石工」として、全国にその名を知られ、今でも天才的石工の技が各地の石造物に残っており、聖天堂再建工事の地形基礎も、この高遠石工の石屋伊衛門らによるものだったのです。
 因みに、現在の「新宿御苑」は、元は高遠藩3万5千石の中屋敷があった場所で、また、甲州街道の日本橋から最初の宿場が「内藤新宿」と呼ばれたのは、この内藤氏が幕府に返上した屋敷地跡に置かれたからです。

 

 以上で本稿・「国宝・妻沼聖天堂の魅力」シリーズを終りますが、当時の一流工匠たちが、武蔵国北部の片田舎・妻沼郷に集結し、建立した聖天堂の魅力が、郷土の歴史・文化を語る上で、少しでもお役に立てれば幸いです。(文・写真:阿部修治)

<完>

 

著者紹介:熊谷市在住。上武郷土史研究会主宰、阿うんの会・講師。
     全国歴史研究会、埼玉県郷土文化会、木曽義仲史学会、他各種会員。
主な著書:『妻沼聖天山』、『甦る「聖天山本殿」と上州彫物師たちの足跡』(以上さきたま出版会)、『寺社の装飾彫刻・関東編上』(日貿出版社)、
     『斎藤氏と聖天堂』(熊谷市立熊谷図書館)、『歴史と文化の町・“めぬま”』(阿うんの会)

 

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